♦18 東京駅丸の内駅舎(東京都千代田区)

♦となりの建築

JR東日本の、東京駅。
毎日、100万人もの人達が、乗り降りする駅です。

気忙しい日々の中では、丸の内の改札で、ドームの天井を見上げるゆとりはないかもしれません。
実は、国の重要文化財ともなっている、貴重な建築物です。

1 復原された赤レンガ駅舎

現在の駅舎は、重厚な歴史を感じさせる赤レンガの、3階建ての建物です。

「丸の内口は滅多に利用しない」というような人だと、或いは、古い記憶と比べて、少し不思議な感じを受けるかもしれません。

昔から、レトロな赤レンガだったと思うけど、こんなに大きな建物だっただろうか、と。

終戦後の1947年(昭和22年)から、復元工事が始まった2007(平成19年)までの、実に60年の間、丸の内側の駅舎は、一回り小さな2階建ての建物でした。

その後、5年の工事を経て、2012年(平成24年)に、3階建ての建物に生まれ変わりました。
しかし、それは、開業当時(大正3年)の姿に、復原されたものなのです。

(因みに、『復元』の漢字を使うのは、失われた遺跡などを、推測などを交えて作り直す場合で、歴史的な建造物などを、元の姿に戻す場合は『復原』の方が使われます。)

■駅舎中央(皇室口)

■2階と3階の装飾(3階は復原)

丸の内口の駅舎は、1914年(大正3年)に、竣工しました。

設計は、『辰野 葛西 設計事務所』。
いわば、日本の建築事務所の、先駆けとなったような共同事務所です。

「日本近代建築の父」とも呼ばれる、辰野 金吾(1854(嘉永7)年~1919(大正8)年)と、下の世代の、葛西 萬司( 1863(文久3)年~1942(昭和17)年)が二人で立ち上げた事務所です。

東京で、1903(明治36)年に開設。

赤レンガに、白い花崗岩、さらにはドーム型の屋根を配する、その特徴的なデザインは、「辰野式ルネサンス」とも呼ばれています。

この美しい赤レンガの建物は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、空襲で大きな被害を受けました。

まもなく復旧工事が始り、1947年(昭和22年)には、外壁の修復なども完了しましたが、ダメージの大きかった3階部分の外壁は取り除かれ、2階建ての建物に変わりました。

この時点で、南北の両ドームは、丸型から台形に、変更されました。

そして、その後、60年ほど、そのまま使われることになったのです。

■2階から3階へ移設された柱頭飾り

■復原工事の様子を説明するプレート

復原工事は、2007年(平成19年)から、5年をかけて行われました。
鹿島・清水・鉄建 建設共同企業体(JV)の施行。

鉄骨鉄筋コンクリート壁で増築して、3階建てにし、外壁や、南北のドームの内外の意匠も、開業当時の姿に戻しました。

一方で、新しい技術も導入されています。

地震に対する備えとして、地下に、免震ゴムや、オイルダンパーといった、免震装置が設置されました。(駅の機能を止めることなく、工事が続けられたというから驚きです。)

■免振装置による溝。地震の揺れを吸収

■工事期間中休業していたホテルも再開

北口改札のドームと、南口改札のドームの間にある、中央の入り口は、「皇室口」と呼ばれる、皇室専用の出入り口です。

普段は、閉ざされています。

天皇皇后両陛下や、皇族の方々、或いは国賓や、外国の特命全権大使といった要人だけが、利用する玄関です。

例えば、天皇陛下が新幹線で地方へ行幸される際などに、一般の人達の目に触れずに、ホームまで辿り着ける、専用の通路に続いています。

この皇室口は、大正3年の東京駅開業の時点で、皇居からまっすぐ伸びる、行幸通りの正面に配置されました。

一般の人は使えない出入り口ですが、現在、多くの観光客が、その前で、記念撮影をするスポットになっています。

■リムジン等(時には馬車)が乗り付ける玄関

■振り返れば皇居へ続く「行幸通り」

2 平民宰相「原敬」

復原された、北口と、南口のドームはまったく同じ形状をしています。

ドームの中にいると、自分がどちらにいるのか、混乱するようなことも、あるかもしれません。(待ち合わせなどの際は、要注意です。)

実は、南口にだけあって、北口に無いものがあります。

それは、ある『事件』の現場なのです。

■南口入り口

■復原された南口ドーム内部

南口改札の、切符売り場の直ぐ横。
平民宰相と呼ばれた、原敬(はら たかし)首相の刺殺現場を示す掲示があります。

原敬(1856(安政3)年~1921(大正10)年)は、第19代の内閣総理大臣。

1918年(大正7年)に成立した、原内閣は、日本で最初の「本格的な」政党内閣です。

総選挙で勝利した「立憲政友会」を基盤とし、衆議院に議席を持つ(選挙で選ばれた)原敬が組閣しました。

どうして、「本格的な」という限定がつくのかというと、それまでにも、政党内閣はありましたが、総理大臣が選挙で選ばれた人ではなかったことなど、不完全なものだったからです。
(日本で最初の政党内閣は、1898年(明治31年)の大隈重信の内閣です。)

1921年(大正10年)11月、原敬は、関西で開かれる政友会の大会に出席するため、東京駅を訪れました。駅長室から、乗車口の方へ歩き出したところを、暴漢に心臓を刺され、死亡しました。
65歳でした。

在任中に暗殺された、最初の総理大臣となりました。

■切符売り場横の掲示

■経緯を説明するプレート

■プレートの下にある丸い印

■現場を示す床の表示

東京駅の復原工事には、他にも、色々と興味深い話しがあります。

国の重要文化財に指定されたのは、2003年(平成15年)です。
(正式名称:東京駅丸ノ内本屋、とうきょうえきまるのうちほんや)

当時は、2階建ての建物でした。

そうなると、その後、復原工事を経て、3階建てになったわけですが、かさ上げされたような形の1階部分なども、果たして重要文化財なのか。
(この点、厳密な答えはなさそうです。)

また、この事業は、都市開発の面でも、画期的なものでした。

約500億円といわれる事業費は、俗に言う「空中権」を売却することで、生み出されました。

2000年(平成12年)に創設された、『特例容積率適用地区』という制度を活用したものです。(丸の内駅舎が、その適用第一号。)

法律上は、もっと高い建物を建ててよい場所だったわけですが(通常は、容積率一杯に建てて、お金を回収するわけですが)、この事業では、歴史的な建造物の姿に戻すことを優先しました。

このような選択をした場合、国からの補助金に頼らざるを得なくなったりするものです。

ところが、この事業では、空中権の売却(余した容積率を、周りのビルが買い取り、そちらのビルはさらに高層化)という、ちょっと驚くような、仕組みを活用して工事費用を捻出したのです。

そうして丸の内駅舎は、大正時代の姿に、復原されました。
もしかしたら、レトロな姿に戻っただけ、と思う人もいるかもしれません。

しかし、このプロジェクトが形になったのは、文化的な価値を尊重する多くの人の気持ち、技術開発や技術力の向上、財源を捻出する新たなスキームの工夫、といった様々な力が集まったからこそ、だと思います。

日本の社会が、こんな段階まで進んでこれたのも、原敬をはじめとする、多くの先人達の、それこそ命がけの仕事のおかげ、と感じるところです。

■刺殺現場から見上げるドーム(当時の姿に戻った丸天井)