岩手県の南部、宮城県に接する一関市。
市役所の前に、蘭方医学の発展に尽力した、建部清庵(たけべ せいあん)の像があります。
1 江戸時代の名医『建部 清庵』
建部清庵(1712年(正徳2年)~1782年(天明2年))は、江戸時代中期のお医者さんです。
一関藩の藩医でした。
「解体新書」の出版や「蘭学事始」を書いたことで有名な、江戸の蘭学医、杉田玄白(すぎた げんぱく)と、生涯、深い親交を結んだ人物です。
清庵と玄白の間で交わされた手紙は、玄白の蘭学塾で、初学者に対する最初の教材として活用されました。
手紙の一部は、1795年(寛政7年)に、大槻玄沢(おおつき げんたく、一関藩出身の蘭学者で玄沢の弟子)らの手によって『和蘭医事問答』という題名で出版されました。
実は、初代から、五代目まで、代々同じ「建部清庵」を名乗っています。
名声が際立っていて、銅像のモデルになっているのは、二代目の、由正(よしまさ)です。
「由正」というのは諱(いみな=実名)。
名医として知られた清庵ですが、「民間備荒録」や「備荒草木図」という書物を著した人でもあります。
これらは、相次ぐ飢饉(ききん)を憂いて書かれた、いわゆる「救荒」(きゅうこう)の書です。
飢饉に備えて、食用となる樹木を植えたり、食料を備蓄する方法が述べられているほか、具体的に草や木の葉を食べる方法、解毒法、応急手当法などが記されています。
一関藩が、藩内の村々に配って、飢饉に備えたと伝えられています。
■正面
■背面
■全体
■青空の下の清庵像
2 高岡の彫塑家『喜多 敏勝』
清庵像の作者は、喜多敏勝(きた としかつ、1954年(昭和29年)生まれ)氏。
銅器の町として知られる、富山県高岡市の彫塑家です。
米治一(こめ じいち)に師事しました。
治一は、東京美術学校で高村光雲に学び、その後故郷の高岡に戻って、自身の制作活動とともに、後進の育成にも尽力した人です。
高岡銅器の歴史は、1611年(慶長16年)に、二代目加賀藩主、前田利長が産業振興のために、鋳物師を招き、市内金屋町に、工場を作ったことに始ります。
敏勝は、この金屋町で、長い歴史を今につないでいる、名門、喜多家に生まれました。
日展への入賞の他、仏像の制作などでも活躍を続けています。
■清庵の仕事を詳細に記す説明版
■清庵像と一関市役所庁舎
市役所の中に入ると、一階のホールに飾られてある、木彫りの大きなお面が、目を引きます。
かまど神(がみ)と呼ばれる、竈や囲炉裏、或いは台所などの火を使う場所に祀られる神様です。
(地元では『かまがみさま』とも呼ばれています。)
災いを防ぐ守り神として、家々のかまど(台所)の柱に、祀られてきました。
建部清庵や、大槻玄沢など、多くの著名な学者を排出した、この一関地方の、古くからの人々の暮らしの様子が偲ばれます。
■かまど神
■「かまど神」の由来

■人々の暮らしを見守る「かまど神」
