青森県の西部、津軽半島に位置する五所川原市(ごしょがわらし)。
2005年(平成17年)に、それまでの五所川原市と金木町(かなぎまち)、市浦村(しうらむら)が合併(新設合併)し、現在の市域になりました。
五所川原市 金木町の芦野公園に、小説家 太宰治(だざい おさむ)の像があります。
1 金木町と太宰治
太宰治、本名、津島修治(つしま しゅうじ)は、1909年(明治42年)6月19日に、当時の青森県金木村に生まれました。
津島家は、県下でも有数の大地主でした。
父親の津島源右衛門は、県議会議員や貴族院議員を務めた地元の名士。
津島家は「金木の殿様」と呼ばれるほど、経済的に恵また家でした。
太宰の長兄、津島文治(つしまぶんじ)も、衆議院議員や参議院議員を務めました。
初代の(公選の)青森県知事になった人でもあります。
太宰は、第二次世界大戦前から戦後にかけて小説家として活躍し、『人間失格』や『斜陽』、『走れメロス』など、多くの作品を残しました。
一方で、それは自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらの創作活動でした。
1948年(昭和23年)6月13日、愛人と、玉川上水(江戸時代から続く東京都の水道施設)で入水自殺し、亡くなりました。満38歳でした。
二人の遺体は、奇しくも、太宰の39回目の誕生日である6月19日に発見されました。
この6月19日は、太宰が直前に書いた短編の「桜桃」にちなんで、「桜桃忌」(おうとうき)と名付けられました。
芦野公園は、太宰も小さい頃から、よく訪れた場所です。
太宰の文学碑と、銅像が設置されています。
銅像は、2009年(平成21年)6月19日、つまり、太宰の生誕100年を記念して建立されたものです。
■「日本のさくら名所100選」でもある芦野公園
■園内をローカル線「津軽鉄道」が走る
■芦野湖を含む約80ヘクタールの敷地
■園内の「桜松橋」のたもとの太宰治像
■像の近くにある文学碑(1965(昭和40)年建立)
■文学碑の裏側(太宰が愛したヴェルレーヌの詩)
2 太宰治像
太宰治の銅像を制作したのは、彫刻家の中村晋也さんです。
中村さんは、1926年(大正15年)に三重県で生まれました。
1949年(昭和24年)、東京高等師範学校(現:筑波大学)を卒業後、鹿児島大学に講師の職を得て、赴任しました。
以降、教育学部で、美術を教えるかたわら、鹿児島市を拠点に、制作活動を続けてきました。(1992年(平成4)鹿児島大学退官。同年、名誉教授。)
2007年(平成19年)には、文化勲章を受章しています。
中村さんは、今年(2026年(令和8年))でちょうど100歳です。
現在も、現役で活動を続けています。
今年、数年かけて制作してきた新たな作品を発表しました。
かつて薩摩藩には、宗教(浄土真宗)を弾圧した歴史がありました。
人々は洞窟で、隠れて念仏を唱えてきました。
当時の、この「かくれ念仏」を題材にした、高さ3メートルもあるモニュメントを、100歳となった今年、完成させたのです。
地元のテレビ局のネットニュースで、中村さんの仕事ぶりを、映像で見ることが出来ます。
100歳となった中村さんが粘土をこねる姿は、ちょっと感動的です。
(その「祈り」を捧げるような作品も、現代的で、迫力満点。)
同時に、中村さんは、幸せだったら100でも続けられるのだ(苦しみになったら望まない)、と静かに語っています。
■中村晋也作『太宰治像』
■太宰像を裏側より
■太宰像の右側
■太宰像の左側
「太宰治像」は、生誕100周年を記念して、建立されました。
2009年(平成21年)6月19日に行われた除幕式には、全国から、数百名の太宰ファンが、訪れたそうです。
芦野公園の銅像は、太宰が外出するときに愛用していたという、マント姿です。
今、銅像の周囲を、ぐるぐる回って眺めていると、太宰の作品と、その生涯が、どうしても頭にうかんできます。
太宰治の人生とは、結局、何だったのか。
このような具象彫刻の魅力は、その造形の向こうに見えてくる、モデルとなった人物の人生そのもの、なのかもしれません。
同時にそれは、その人物の内面を、何とか形にしようと苦心した、彫刻家の仕事を想像する楽しみ、ある種の追体験、ということでもあります。
中村さんも、除幕式の際に、今日の日を無事迎えられてほっとした、というようなことを語っています。
思い入れの強い、太宰ファンは、今も驚くほど、沢山いるはずです。
中村さんにとっても、重圧のかかる仕事だったろうと、想像されるところです。
■「太宰治像」正面全体
■台座正面の像名
■台座、添え書き
■何枚撮っても捉えきれない気がするその魅力
