岩手県の最南端、一関市。
JR一ノ関駅前には、江戸時代後期から大正にかけて、親子三代にわたって活躍し、名を残した、学者達の像があります。
1 大槻三賢人像
西口改札から、駅正面出口を出ると、『大槻三賢人(おおつきさんけんじん)』の像が出迎えてくれます。
この像は、東北新幹線の開通を記念して、1984年(昭和59年)に、設置されたものです。
(因みに東北新幹線の開業は、1982年(昭和57年))
一関青年会議所が企画し、一関市や、一ノ関駅の協力のもと、地元企業などから寄付を募り、実現しました。
■西口を出て直ぐの三賢人の像
■斜め左方向から
像の作者は、彫刻家の西村栄一。
西村の屋外作品は、他に、北海道の江別市でも見つけることができます。
こちらは、1993年(平成5年)制作の、「ポプラの詩」という裸婦像。
江別市には、まちの中心部にある、湯川公園まで続く「野幌グリーンモール」という、散策路があるのですが、この道沿いには、噴水や、様々なオブジェが設置されています。
「ポプラの詩」も、グリーンモールの雰囲気や、景観を形成する、一つの要素になっています。
2 大槻三賢人とは
大槻三賢人とは、一関市にルーツを持つ、「大槻 玄沢(おおつき げんたく)」「大槻 磐渓(おおつき ばんけい)」「大槻 文彦(おおつき ふみひこ)」の、親・子・孫の三代の学者のことです。
孫の「文彦」(1847(弘化4)年~1928(昭和)3年)が成し遂げた仕事は、一言で説明できます。
「文彦」は、1886年(明治19年)に、日本初の近代的国語辞典「言海」を、苦労の末、たった一人で作り上げました。
(出版は、1889年(明治22年)から1891年(明治24年)にかけて。)
「文彦」のお父さんが「盤渓」(1801(享和元)年~1878(明治11)年)。
「文彦」は「盤渓」の三男でした。
著名な漢学者であり、儒者であった「盤渓」ですが、この人の生涯は、一言で説明するのは困難です。明治維新前後の、激動の時代を、明るく、たくましく生きた人生でした。
旧幕府側に付いたため、戊辰戦争後は戦犯として幽閉されたりもしますが、「文彦」らの助命運動のお陰もあり、解放されて、その後隠居し、ちゃんと天寿を全うしました。(享年78歳)
生涯好きな酒を飲み、漢詩を詠みました。
面白い逸話が沢山残っている人で、40歳を過ぎてから「漢学を本業、西洋砲術を副業として文武両刀たらん」と自ら思い立って、西洋砲術を学んだりもします。実際に、所属していた仙台藩で、その知識を活かす役職(西洋砲術稽古人)にも就きました。
「盤渓」のお父さんが「玄沢」(1757(宝暦7)年~1827(文政10)年)。
「盤渓」は、「玄沢」の、二男でした。
「玄沢」は、一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者。
「玄沢」の父親(大槻玄梁)は、一関藩の藩医を務めました。
このため「玄沢」は、小さな頃から、地元で、名医として評判の高かった、建部清庵(たけべ せいいあん)を師として学び始めることになりました。
建部清庵は、『解体新書』を世に出した、あの杉田玄白と(手紙だけではありましたが)、医学に対する想いをぶつけ合う、深い友人関係を、生涯続けた人物です。
清庵は、弟子の中でも特に優秀だった「玄沢」を、杉田玄白の下で、学ばせたかったようです。
「玄沢」が22歳のとき、藩から、遊学の許可が下り、「玄沢」を江戸へ向かわせました。
その後、「玄沢」は、江戸で、杉田玄白から医学を、前野良沢からオランダ語を学び、高名な蘭学者としての地位を築いていくことになったのです。
(建部清庵について↓)
♣13 建部清庵(由正)像(岩手県一関市)
■蘭学者「玄白」の像
■漢学者「盤渓」の像
3 日本初の国語辞典「言海」
一関藩は、仙台藩の支藩という関係性でした。
1786年(天明6年)、「玄沢」は、本藩である仙台藩の藩医に抜擢されますが、そのまま江戸で働くこと(江戸定詰)を命じられました。
このため、その子供の「盤渓」も、さらにその次の代の「文彦」も、江戸で生まれています。
「盤渓」が60歳を過ぎた頃、幕末の混沌としていた時期、藩から仙台へ戻るように命じられました。
これは、開国派で有名人だった「盤渓」が、暗殺の対象となることを、藩側が心配したからです。
その時、「盤渓」は、子供の「文彦」などをつれて、仙台へと移りました。
明治維新の後、「盤渓」は、隠居の身を、東京で過ごしました。
その頃、「文彦」は、学業を終え、当時の文部省で働き始めました。
その時点まで、「文彦」は、「英学」を中心に学んでいました。
1875年(明治8年)、文部省の上司から、「文彦」は、ある特命業務を命じられます。
それが、国語辞典の編纂でした。
それまで、日本には、今我々が目にするような、あの国語辞典は存在しませんでした。
明治政府としては、近代国家の仲間入りをするために、西洋諸国のように、早く国語辞典を持つことが必要だったのです。
「英学」を学んでいた「文彦」としては、そのミッションに対し、英語の辞書を日本語に訳していくことで、形になるだろうと考えました。
しかし、直ぐに大きな壁にぶつかりました。
日本語の文法が、確立されていないことに、気が付いたからです。
一人で、文法の研究から作業を進め、1882年(明治15年)に、初稿の完成に漕ぎ着けました。
その後さらに校閲に4年をかけ、完成したのは1886年(明治19年)。
ところが、文部省から刊行される予定だったものが、予算が無く、出版できないという事態になってしまいます。
1888年(明治21年)、自費出版を条件に、文部省から原稿を下げ渡してもらい、ようやく、1889年(明治22年)から1891年(明治24年)にかけて、刊行となったのです。
■国語学者「文彦」の像
■「文彦」像と一ノ関駅
考えてみれば、現代の暮らしの中では、国語辞典を手にすること自体、急激に減っているかもしれません。分からない言葉などがあった場合、すぐに、スマートフォンやパソコンで検索してしまうからです。
もしかしたら、段々と、日本で最初に国語辞典を作った人、と説明しても、ピンとこない人達も増えていくのかもしれません。
しかし、日本の言葉を体系的・網羅的に、一つ一つ、その品詞や説明文を考えていった「文彦」の功績は、決して色褪せることはないと思います。そこが整理されたからこそ、現在の、ネット上の電子辞書の記述なども、存在できているわけですから。
しかも、それはたった一人、上司からの指示で、手掛け始めた仕事でした。
組織で働く、多くの職業人にとって、何か、身につまされる展開かもしれません。
同時に、その成し遂げた成果は、人が一生をかけるに相応しい、ちょっと羨ましいほど価値のある、『仕事』にもなったと思います。

■上を向く「文彦」像
