秋田県の、海側の南端、にかほ市。
にかほ市は、2005年(平成17年)に仁賀保町、金浦町、象潟町が合併して誕生しました。
かつて松尾芭蕉も訪れた、古くからの景勝地である「象潟」。
この象潟にある蚶満寺(かんまんじ)の境内の一角に、松尾芭蕉の銅像があります。
1 奥の細道から三百年を記念して建立
蚶満寺にある、松尾芭蕉像は、奥の細道の旅が始った元禄二年(1689年)から、三百年となる平成元年(1989年)に建立されました。
原型の作者は、彫刻家の般若純一郎(はんにゃじゅんいちろう)。
鋳造を行ったのは、富山県高岡市にある、株式会社竹中製作所。
(現在は同社の銅器部門が独立して、株式会社竹中銅器となっています。)
般若純一郎は、1931年(昭和6年)生れ。
高岡工芸高校卒業後、米治一(こめじいち)に師事して、彫塑技術を習得しました。
高岡銅器(たかおかどうき)の名工として、多くの作品を制作しました。
1989年(平成元年)に亡くなっています。
師匠の、米治一(1896年(明治29年)~1985年(昭和60年))も、高岡市出身の彫刻家。
東京美術学校で、高村光雲に師事しました。学校を出てすぐ、高岡に戻り、地元で、多くの記念碑や仏像などを制作し続けた人です。
そもそも高岡銅器とは、富山県高岡市で製造される銅器の総称です。
1975年(昭和50年)に、経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されています。
高岡は、現代日本における美術銅器の一大産地なのです。
米治一も、その下で学んだ般若純一郎も、銅器のまちで、銅像や仏像の他、室内置物など、様々な作品を制作し、今にのこしました。
蚶満寺の松尾芭蕉像は、般若純一郎の最晩年の作品です。
■大きな石の台座
■立像前面
■左斜め下から
■背面から
■足下の般若純一郎のサイン
■銅像建立の経緯を記す銘板
2 松尾芭蕉と蚶満寺
江戸時代前期の俳諧師である、松尾芭蕉。
元禄2年(1689年)に、弟子の河合曾良(そら)を伴い江戸を発ち、奥州、北陸道を巡る旅にでました。この時の紀行文が「おくのほそ道(奥の細道)」です。
元禄2年は、芭蕉が崇拝する、西行の500回忌でした。この記念すべき年に、東北各地に点在する歌枕の土地などを訪ねることが、旅の最大の目的でした。
象潟は、この旅の日本海側の北限です。
この地を訪れた、芭蕉は、美しい象潟の風景の中で、雨に濡れる合歓木(ねむのき)の花を、中国春秋時代の、悲劇の美女である西施(せいし)に重ね、こんな句をのこしました。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
■蚶満寺の案内図
■山門(にかほ市指定有形文化財)
芭蕉も訪れた、蚶満寺(かんまんじ)は、仁寿3年(853年)に開山したと伝えられる、とても古いお寺です。
境内には芭蕉の句碑の他、江戸中期の建造とされる山門や、浄土真宗の開祖 親鸞(しんらん)が腰掛けた石であるといわれる(伝説が残る)親鸞上人腰掛の石など、多くの見学場所があります。
また、近年では、いわゆる「猫寺」としても有名。
猫好きの住職が、捨て猫などを保護したのがはじまりです。
広い境内のあちこちで、のんびりと、日向ぼっこしたりする猫の姿を、あわせて見学できます。
■堂々と歩く猫、登場
■警戒するふうもなく、すたすた近付いてきます。
■自由に過ごす何匹もの猫達
■興味があるのかないのか。ゆっくり足元を通過
この蚶満寺は、かつては潟湖の湖畔にありました。
九十九島(くじゅうくしま)と呼ばれる、その一帯は、芭蕉が訪れた当時は、実際に潟湖(ラグーン)の中に、小さな島が点在する景勝地でした。「西の松島」と表現されています。
ところが、その後、文化元年(1804年)に発生した、象潟地震により、地盤が数メートル隆起し、次第に水深も浅くなってきていた潟湖は、その時点で、完全に干上がり、消滅してしまったのです。
田んぼの中に、昔から点在していたであろう小島が、今も残されています。
蚶満寺の参道の眺めからも、当時の景色を、感じることができます。
地震の後、新田開発を進めたい本荘藩は、塩害による被害を緩和するために、残った小島を崩して、その土砂で地盤改良を計画していました。
それを知った蚶満寺の僧・覚林は、景観維持のために、京の朝廷に働きかけるなどして、開拓反対運動を展開しました。
小藩だった本荘藩としては、新田開発に、新たな米の収穫源として、大きな期待を寄せていたようです。
産業政策と、環境問題は、いつの世も相性が悪いのかもしれません。
単なる美しい景色だけではなく、「象潟」には、興味深い歴史の流れが続いています。
■蚶満寺参道から臨む小島の跡
■今でも旅を続けているような後ろ姿
